麻薬王パブロ・エスコバル

アンドレス・エスコバル選手が選手として所属していたサッカークラブ「アトレチコ・ナシオナル」の元オーナーパブロ・エスコバルは、コロンビア最大の麻薬密売組織「メデジン・カルテル」を創設した人物でもあり、悪名高い【麻薬王】として世界中に名前を轟かせました。世界最大ともいわれる麻薬消費国のアメリカをはじめとした世界中でコカインを密売して、世界で有数の富豪にまで上り詰めた人物です。そしてエスコバルの命令ひとつで、400人以上の人たちが殺されたとも言われることから、「史上最も凶悪非情な野心に満ちた麻薬王の一人」としても知られています。

メデジン・カルテルを作った男

パブロ・エスコバルはコロンビア3大都市のひとつのメデジンで生まれました。メデジンは首都ボゴタに次いで第2の都市でもあります。父親は畜産業、母親は教師という決して裕福とはいえない家庭に生まれ育った少年パブロ・エスコバルは頭が良くそして家族思いの優しい子供でした。

ところが、10代の頃に墓石を盗んで墓碑名を消して墓石を転売したことに犯罪に目覚めて、高校を中退。それからは自動車盗に強盗、誘拐そして殺人へと犯罪の限りを尽くすようになりました。それからやがて、コカイン取引がお金になることを知って、1970年代までにメデジン・カルテルを築き上げました。自分自身はコカインは一切やらずに、大麻をもっぱら愛用していました。

麻薬カルテルの拡大

1980年代に入ると、麻薬の販売ルートをメデジン・カルテルは拡大します。ペルーとボリビアから持ち込んだ良質のコカインを中南米のメキシコ、プエルトリコ、ドミニカに売り込んでいっただけではなく、そこからさらに、販売ルートを拡大させていき、南北のアメリカ大陸や一部アジアとも取引するようになったため、コロンビア政府だけではなくアメリカ政府とも激しく対立するようになりました。

最盛期のメデジン・カルテルは、世界中のコカイン市場のうちの実に80パーセントを支配していたといいます。そこから得る収入は、年間最大250億ドルもの巨万の収入を得ていたとも見積られていたため、パブロ・エスコバル自身もフォーブス誌から世界で7番目の大富豪として取り上げられたこともあります。麻薬王として君臨したパブロ・エスコバルは、コロンビア政府やアメリカ政府からみると明らかな敵でしてが、パブロ・エスコバルは貧困層へ住宅を建設したり、サッカースタジアムを建設したりといった慈善事業に非常に熱心だったため、無知で無学な貧困層を中心とした一部のメデジン市民の支持を得ることになり、そして貧困層の英雄でもありました。パブロ・エスコバルから援助を受けたメデジン市民の中には、自らパブロ・エスコバルの警護役や見張役をかって出て、憲兵役のようにエスコバルの身を官憲から守る人たちもいたほどです。そして一時的ではありますが、コロンビアの国会議員を務めたこともありました。

テロ

アメリカ政府は1980年代の後半に、アメリカ国中にコカインが流入していることに頭を悩ませていました。そのためアメリカ政府が選んだ手段は「エスコバルの引渡しとアメリカ国内での裁判」を条件にコロンビア政府と協定を結ぶことにしました。このコロンビア政府とアメリカ政府が結んだ協定に激しく反発したパブロ・エスコバルは「plata o plomo」つまり、直訳では「銀か鉛か」になりますが、意訳をすると「お金か銃弾か」といった意味になり、この「plata o plomo」ということで、政治家・役人・裁判官といった人物への贈賄工作を活発化させる一方で、敵対者への暗殺そしてテロを敢行していきました。テロに関与している噂も事実あり、1985年に発生した左派ゲリラによるコロンビア最高裁占拠事件は、パブロ・エスコバルが関与しているのでは?!と噂されることになりました。

1984年には、アメリカへの犯罪者引渡し協定を厳格に進めようとしていたコロンビア法務大臣を暗殺します。そして1985年4月19日に発生したコロンビア最高裁占拠事件にも関与しているといわれています。さらにパブロ・エスコバルの引渡し賛成派の国会議員2名を暗殺したほか、翌年には検事総長を暗殺しています。そして遂に1989年に、メデジン・カルテルは、ルイス・カルロス・ガラン大統領候補者も暗殺しています。

その他、アビアンカ航空機203便を爆破したテロでは乗員と乗客110名が犠牲になっただけでなく、ボゴタの治安警察本部前爆破などのテロ行為を実行しています。そしてメデジン・カルテルとライバル関係にあるカリ・カルテルとの抗争も激化したため、メデジン周辺は無政府状態に陥ることになりました。

豪華刑務所への収監

コロンビア政府側も反撃に出ます。パブロ・エスコバルと不仲になったメデジン・カルテルの幹部でカリブ海の密輸ルートを握っているカルロス・レデルを1987年に逮捕してアメリカに引き渡します。そして首都ボゴタなどを統括していたメデジン・カルテルの幹部ゴンザロ・ロドリゲス・ガチャを1989年に特殊部隊によって射殺しています。そして翌年の1990年から、憲法改正で犯罪者の対外引渡しが禁止されたことによってカルテルから幹部からの投降が相次いだため、パブロ・エスコバルもコロンビア政府や敵対者との抗争に疲れたこともあり、遂に1991年に、5年の服役とアメリカへの引渡忌避を条件にしてパブロ・エスコバルは出頭します。そしてかなり豪華な設備を備えた刑務所に収監されることになりました。

この収監され豪華な刑務所は教会を意味する「ラ・カテドラル」や「オテル(ホテル)・エスコバル」と言われるほど、豪華な刑務所ですがそれもそのはずです。この収監された刑務所施設そのものが、収監される前にパブロ・エスコバルの寄付で建設された豪華な刑務所でした。この刑務所とは思えない「オテル・エスコバル」のような刑務所は、サッカー場もあればディスコもあり、まさに「オテル」のような刑務所で、そこでバブロ・エスコバルは以前と同じように今までと変わらず、自身の組織に指示を出しただけではなく、メデジン市内へ外出して買い物を楽しんだり、パーティやサッカー見物を楽しむ刑務所生活でした。

ところが、「オテル・エスコバル」刑務所で、パブロ・エスコバルは1992年に刑務所内で2件の殺人事件を起こします。殺されたひとりは、パブロ・エスコバルの幼なじみでした。幼なじみのパブロ・エスコバルの友人は、囚人たちの前で幼なじみのエスコバルに気安い態度を取ったことが、エスコバルは許せず激昂したため、幼なじみの男性をパブロ・エスコバルが射殺しました。2件の殺人事件が表面化すると、さすがに世論の怒りを買うことになり、そしてエスコバルに対して及び腰だったコロンビア政府も動いたため、パブロ・エスコバルは豪華な刑務所から別の刑務所へ移管することが計画されました。そして移管の日となった1992年7月22日、パブロ・エスコバルは刑務官の前を堂々と歩いて豪華な刑務所を出ると、移管先の刑務所に向かうことはせずに、そのままメデジン市中に姿を隠しました。